最近何かいいことあった? と彼女は聞いてきた。


最近何か良いことあった? と彼女は聞いてきた。
街中でばったり会った彼女はきれいな着物を着ていて、赤い鼻緒の草履を履いていた。彼女に会うの数年ぶりだった。
僕は言葉の意味がつかめず、もう一度頭の中でなぞってみた。
「最近何かいいことあった?」

「いいこと」って何だろう。
しばらく考えてみたけど、何も頭に浮かばなかった。
なんだか寝起きでぼんやりしているところを手を引っ張られて知らない場所に連れてこられたみたいな感じだった。
目の前にぽかんとした空間が広がっていて、時折砂埃が舞い上がって強い風が吹くと砂粒がパチパチとおでこに当たる。

「いいこと」って何だろう。
「いいこと」って、ツイてたとかそういうことだろうか?
何か珍しいシールを拾ったとか、くじ引きで当たったとか。
なんか違う気がする。アップがあればダウンがあるのが世の常だし、後々考えたら、あれさえなければよかったのにってなるかもしれない。僕がツイていることで割を食う人もいるかもしれないし、そうすると、その人にとってはいいことじゃないってことになる。
珍しいシールを見つけて腰をかがめたらぎっくり腰になって動けなくなった。これはいいことだろうか?
だいたい共存しているんじゃないか、いいことも悪いことも。大抵の物事はトレードオフなのだ。何かを選択すれば、何かを捨てなきゃいけない。
沖縄旅行に行って楽しかった。しかし、そのせいで北海道には行けなかったのだ。これは「いいこと」だろうか? 北海道ではもっと「いいこと」があったかもしれない。
物事から純粋な「いいこと」だけを抽出するのは難しいことなんじゃないか。
僕は彼女をちらっと見た。彼女はうつむいたまま辛抱強く待っている。
まいったな。

もっと普遍的な事ならいいのかもしれない。
例えば土から芽が出て、大きくなり、実を付けて、それを僕が食べる。
僕のうんこを微生物が食べて、土を作り、そこからまた芽が出る。
そういうのは「いいこと」だろうか? 「いいこと」とはまた違う気がする。ただの循環だ。それがどこに向かっているのかよくわからない。
太陽はどうだろう?
太陽が誕生したことは「いいこと」だろう。太陽は可能性の塊だ。
悪くない返答じゃないだろうか。よし、これでいこう。
「太陽…」
僕は言いかけてふと気づいた。最近じゃない。太陽の誕生は何十億年か昔の話だ。彼女は「最近何かいいことあった?」と聞いたのだ。
「…じゃない」僕は言った。そして「太陽は最近じゃない」ともう一度言い直した。
彼女が目を伏せたまま僕の方を向いて、口元だけで微笑を一瞬浮かべ、また向こうを向いた。

子供の誕生はどうだろう。これは「いいこと」のように思える。
でも最近僕の周りで子供なんか生まれたっけ?
いやいや、世界のどこかで子供は生まれているはずだ。
世界のどこかで子供が生まれることは「いいこと」だろう。
しかし、僕はそれを答える気にならなかった。
彼女の欲しい答えと違うと感じるからだ。
もっと身近な出来事で返答をするべきなのだ。
しかし身近にある「いいこと」っていうものが全く思いつかないのだ。
怪我も病気もせずに五体満足で生きていることは「いいこと」に違いない。
でもそういうことじゃないのだ。

彼女は「最近どう?」と質問するべきだったのだ。
その質問ならすぐに答えれる。「元気だよ」って言えばいいだけだ。
それならこんなひどい沈黙を作らずに済んだのだ。
「元気いっぱいだよ」「元気満々だよ」「元気モリモリだよ」いろんな表現が思いつく。
絶対こっちなんだ。でも今さらそんなこと言っても仕方がない。沈黙はもうすでに目の前にあって、リアルタイムで刻々と成長していっているのだ。おそらくもう成人くらいにはなっていて、すぐにおっさんになって、まもなくお墓と保険の話しかしなくなる。

何かしゃべれば沈黙は終わるんだろうけど、どんな言葉でこんなひどい沈黙を終わらせればいいというのだろう。
いや、言葉じゃなくてもいいのだ。なにかしら音を発せばいいのだ。
猫の鳴きマネとか、そんなものでもいいのだ。
本当にそうだろうか?
すごくリアルなやつならありな気もする。
あれ? どこかに猫ちゃん? と彼女が気をとられたらこっちのものだ。
「いま猫の声聞こえなかった?」
「うん、聞こえたよね」
すごく自然に、会話が流れ始める。
ただ、僕には猫のリアルなモノマネを決める自信がない。
もう長いこと猫の鳴きマネなんかやってないのだ。最後に猫の鳴きマネをやったのはいつのことだろう。自分が得意なのかどうかも全然覚えていない。チャンスは一度きりだ。リアルなやつを一発で決めなきゃいけない。しかも彼女は僕のすぐ隣にいて、一応まだ会話の途中だ。彼女の意識はこちらに向いている。いくらなんでも条件がきつすぎる。この条件で悟られずに完璧な猫の鳴きマネをするのは腹話術クラスのスキルが必要なんじゃないだろうか。

静かなだけだ。僕は思った。そうだ、静かなだけなのだ。彼女の存在を気にしなければ、これはただの静かな昼下がりなのだ。
静かで、天気も良くて、いい日じゃないか。沈黙なんかあってないようなものだ。
むしろないのだ、沈黙なんて。ないものにそれらしい名前を付けているだけだ。ドーナッツの穴なのだ。沈黙は。本当にそうだ。この静けさを心から楽しもうじゃないか。

足の指を上手に使って少しずつ彼女から離れていくのはどうだろうか。
1分間に1cmずつくらい移動したら気づかないんじゃないだろうか。
自然に消えてしまえば、最初からいなかった感じにならないだろうか。あれ、今まで誰と話していたんだっけ…と。
そんなマンガみたいなことになるだろうか。
いや、大丈夫だ。多分もう大丈夫なのだ。こんなに思い悩むことはない。
デッドラインはとっくに越えている。もう事故のゾーンに入っているのだ。
生存を心配したりとか、そっちの領域に入っている。
「もしもーし!」と耳元で呼びかける段階だ。
僕は待てばいい。「もしもーし!」と彼女が耳元で叫ぶのをただ待てばいい。
その時に「はっ!」と気づけばいいのだ。
あたりをキョロキョロ見回す芝居を全力ですればいいのだ。
そうなったらもう「いいこと」どころじゃないのだ。大事件が起きているのだから。
うん。
僕は納得して、そっと目を閉じた。

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