ギャルよ、味噌を持って山へ入るといい


旅先のゲストハウスで、部屋が一緒になったギャルのショッピングに付き合うっていうわけのわからない展開になった。
手に取った服を体に重ねながら、くるっと回って、これ似合う?って言ってくるギャルに、あー、若い頃こういうどうでもいいのあったなぁ…という既視感に襲われる。

ひとしきり買い物が終わった後、タピオカ抜きのタピオカミルクティーっていう、それミルクティーじゃんっていう飲み物をぶっといストローでぞぞっと飲みながら、彼女は、なんかもう疲れた。やりたいことが何もなくて何をしていいか分からない。水商売でお金を稼いでるけど、稼いで何かがしたいわけじゃない。とにかく退屈で楽しくない。というようなことを言ってきた。
本を読んだり、勉強したりすればいいよ。と僕は言おうとしてためらった。

確かにこういうタイプの人が、富が生きる目的じゃなくなった時代に、何を目的に生きるかっていうのは割と難しいのかもしれない。日本の多くは宗教のない世界だし、誰がそういうの教えるんだろう。
富への憧れも、念仏も、極楽も、自然への畏怖もない時代、個々人が自前の思想を作っていかなきゃならない。歴史や文化を深く学び、ローカル性や性質、身体的特徴などから自分の立ち位置を把握し、ひっきりなしに降ってくる情報を取捨選択しながら、バランスをとって自分なりの思想を組み上げた上で、アップデートし続ける。その上で他者と議論をして意見をすり合わせるという作業になる。

地道でなかなか骨の折れる作業だ。
何もタイムマシーンを作ろうってわけじゃない。ただ行動する根拠を手に入れたいだけだ。それがこんなにも難しい。
自分の軸がフラついていると、Google先生が示す検索結果が自分の考えのような気がするし、頭良さそうな有名人が堂々と述べている意見がなんとなく正しいような気がする。
だが、どちらにせよ自分の思考とは別物だ。楽に流れるのは簡単だが、その意見が信頼できると判断しているのも信頼できない自分なので、結局はグラグラ揺れることになる。
やはり地道にやっていくしかないのだ。

その果てしなさに途方に暮れてしまうのもわかるし、ゲストハウスで出会ったわけのわからないおっさんに愚痴りたくなる気持ちもわかる。
でもその果てしなさが肝なのだ。
その果てしなさ、多様性、自由度の高さが日本の方法だと思う。
我々の祖先は、安直に絶対神を設定してよりかかることをしなかった。
絶対神ではなく、相対的で計算のできない「自然」を軸にする道を選んだ。
それゆえに生まれた果てしない空間は、わかりやすい答えなど何もなく、多種多様な生物が相互作用しながら進化し、共生する世界。偶然性が支配し、あらゆるものが自分と何らかの形で関わっているような気がする世界だ。
その果てしない世界の中で我々は、答えのなさを楽しみ、分かり合えなさを楽しみ、毎秒の変化を楽しみ、毎日の散歩を楽しみ、暗闇の質を楽しみ、自分の存在のなさを楽しみ、人生の意味のなさを楽しむ。
日本で生きるってそういうことだと思う。

かつて、まだ人の生活が自然とともにあった時代、「山上がり」というものがあったという。
人生がどうにもならなくなった時、味噌だけを持って一年くらい山に篭り、野草を摘んだり獣を獲ったりしながらなんとか生き延びる。そして、ほとぼりがさめるとまた村に戻り、社会復帰するのだ。
昔の人の知恵なのだろう。最後のセーフティーネット。自殺するくらいなら、一旦存在を消して山に浄化してもらえといった感じかもしれない。
面白い感覚だなと思う。
どうだろう、ギャルよ、味噌を持って山に入ってみては。