僕らは次世代に何をプレゼントすればいいんだろう


旅しながら盆踊りを踊ってる人として紹介されることが多い。
紹介としてはキャッチーだし、実際そういう一面もあるので間違ってはいないんだけど、芯を外してる感じがしてモヤモヤする。
確かに僕は盆踊りを含めた日本の民俗芸能に魅了されてはいるんだけど、踊りを踊りたくて各地を巡っているかと言われると全然違う。
もともと僕が車の旅を始めた理由は、東京にいるときに短い結婚をしたことに端を発する。

そのときに僕は生まれて初めて子供を作るかどうかみたいな事を考えたわけなんだけど、結論としては子供が欲しいとは一切思わなかった。
東京っていう環境では子育てがしづらいっていうのはもちろんあるんだけど、なにより子供にとって明らかに不利になるとわかっているこの世界をそのまま子供に手渡すことは、人間のクズがすることのように感じたのだ。
自分たちがめちゃくちゃに汚したトイレを次の世代に掃除させるみたいな。そんなことやっていいわけがない。
ちゃんと綺麗に掃除して、替えのトイレットペーパーをピラミッドみたいに積んで、それでどうぞってやりたい。それがまともな人間の行動だろう。
別に相手が自分の子供じゃなくてもそうだ。次に使う人には気持ちいい状態で渡したい。
でも実際はそうなっていない。じゃあどうすればいいんだろう。そう考え始めた。
考え始めたけど、どうすればいいかよくわからない。なにしろこの国のことをそんなによく知らない。あまり興味を持ってこの国のことを見てこなかった気がする。
だから本をいっぱい買って勉強を始めた。歴史とか文化とか、どんどん深く。それに加えて自分の目で確かめようと思って、休みになると地方に足を運ぶようになった。
そんな中で盆踊りに出会った。

最初は盆唄の美しさに惹かれた。
盆踊りっていうのはその土地の土着の唄が中心にあって、その土地の唄の名手が唄うと踊り手が返しの唄を唄い、それらが紡がれて一つの唄になっていく。それに手拍子とか、下駄の音なんかが重なって、リアルタイムで段々と音楽ができあがっていく。自分のその一部となっていて、そのなんとも言えない感覚がゾワゾワ襲ってくる。音楽は形になった瞬間に波みたいに消えてしまう。風とか町の匂いとか風景とかと混ざりあって。
同じ場所で数百年繰り返されることで、故人の面影とともに踊ることができる。ご先祖のご先祖、そのまたご先祖と一緒に踊ることができる。時間をかけて、一年一年地層みたいにしっとりと積み上がっていく。
限界集落では、現地の人よりも帰省する人の方が数が多くて、唄と踊りが染み込んでいる人たちが一年に一回、一夜だけ集まって、ワッと踊って去っていく奇跡みたいな儀式となる。とても美しく、とても儚い。
そういう盆踊りに僕は魅了されていった。

盆踊りの日は集落の扉が開かれていて、遠くから来たことを告げると現地の人が色々な話を聞かせてくれる。唄の由来だとか、昔の賑やかだった頃の話とか。
昔ながらの唄節を唄える人はもう80歳を超えていて、伝承が難しくなってきている。最後の唄い手が亡くなったらもう唄える人がいないという話もよく聞くし、若い人が伝承を頑張っているけどなかなかスムーズにはいっていない。高度成長期に起きた文化の放棄が伝承を難しくしている。文化が切断されているのだ。
今の若い人たちの大部分は日本の唄を聞いたことがない。日本の唄として聞いているのは、ほとんどがレコードを売るために日本っぽく作られた和風西洋音楽だ。演歌とか、なんとか音頭みたいなやつとかはほぼそうだ。
だから伝承となると西洋音楽しか聞いたことがない人が、違うルールの唄を一から覚えることになる。文化の切断とはこういうことだ。自国の文化なのに異文化コミュニケーションになってしまう。何から始めたらいいかわからない上にインセンティブもない。
昔は唄が上手ければモテたし、ヒーローになれたのでみんな率先して唄ったわけだが、今はとくにモテもしないし、お金にもならないし、なにか資格が取れて給料が上がるわけでもない。時間をかけて練習して覚えても、一年に一回お盆にしか披露する機会がない。
じゃあなぜやるのか。奥三河のとある若手音頭取りにそれを尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「数百年続いてきたものを自分の代で途切れさせるのは忍びない」
こういった個人の気持ちによってどうにかこうにか存続している。

伝承を担おうとする人の中には、他所から来た移住者が結構多い。
地域おこし協力隊とか、そのOBとか、町おこしをやっている人とか、社会企業家的な人とか。
彼らは率先して地域の行事に参加し、文化に対しても感度が高い。
そういう人たちが新鮮な目で消滅しそうな民俗芸能を再発見し、面白がるということが起きている。それは地域にとっても、民俗芸能にとっても幸運なことだ。
移住者の人たちとコミュニケーションを取るのは楽しくて、グローバルな感覚と田舎の深い文化が混じりあっていて、都市部の人よりも感度が高い。
各地で移住者たちがコミュニティを作っていて、大学どころか高校もないような田舎町の知的オアシスみたいになっている。
彼らは、交通の便は悪いが文化と自然の豊富な土地で、国を作るみたいに経済圏を作り、ネットやテクノロジーなどを駆使して生きていて、楽しそうに見える。
何より子どもたちが元気だ。自然の中を生き生きと走り回っている。
僕が東京で感じていた子育てのイメージとは全然別物だ。

彼らが次世代にプレゼントしようとしているもの。それは新しい社会だ。
次世代に負の遺産を押し付けない社会。希望を持って生きていける社会。
いまの社会は前時代的なまま肥大化し、複雑化し、硬直化して、もはや自分たちの力では変えようがない。
システムを構築し直さなきゃいけないのは明らかだけど、どうやってそれをやったらいいかさっぱりわからない。
それならばサクッと見切りをつけ、なるべくいまの社会から影響を受けない場所に移動し、新しいシステムを自分の手で構築していく。
すごくもっともな行動だと思う。
子供はどんどん育っていくし、時間がないのだ。とにかく今できることをできる範囲で精一杯やっていくしかない。
しっかり現実と向き合った結果、覚悟を決めて自ら納得のいく世界を作るという茨の道を選んでいる。
僕はこういった各地の手作りの先進的な取り組みにこの国の希望を見ている。
各地のどれかひとつ、あるいは複数の新しい小さな世界が膨れ上がって、日本を覆い尽くし、硬直化した社会を粉々に押しつぶしていくことを夢想する。
そこには力を貸していこうと思うし、僕もどこかで僕なりの世界を形作っていこうと思う。

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